我々の視認しうる、限りなく狭い世界
我々は膨大な過去の蓄積の上に生きている。
そしてそれはあまりにも膨大であるがゆえに、
人は過去を忘却しうる。
または己の無意識の中に埋没させてゆく。
つまり自身ですら、全てを統合しきれているとは
言い難いのではなかろうか。
それらの中から拾い上げた、意識という表層に
浮かび上がりうるものだけに著しく偏った編集を
施したものが貴方の言う「記憶」ではなかろうか。
もっとも、この「記憶」というのは
先の文脈に沿って言語化しうるものを指すということにする。
また、これに加えて、我々の想定というものの
信頼性についても疑う余地があると言えるだろう。
我々の認知は間違いうるということを
常に頭の片隅に置いておく必要がある。
事実は想定を上回ることがよくあるし、
所詮我々の想定というものは起こりうる
事実の可能性に対して貧困である、との
謙虚な認識を抱くのが賢明に思える。
事実は豊かだ、だから行動を起こして
確かめる必要がある、学び、修正する必要が常にある。
可能性を確かめに行こう、想定外で、
とりわけ想定以上で人生を満ち足りたものにしよう。